第2回 明日の幸せのスマイル対談

  • スペシャル対談

みなさん、こんにちは!
本日は、スペシャル対談の内容を載せちゃいます!
お抹茶をすすりながら、穏やかな気持ちで
読み進めていただけると良いかと思います。
(所要時間 約10分)

**********************

「すべては、私たちの明日の笑顔のために!」
というのは、わが社のパーパス・存在意義です。
地元名古屋の百年企業として、
社業を通じ
広く世の中へ幸せの連鎖「善循環」を広げ、
郷土へご恩返しをしていければと考えております。
その一環として、
わたくし佐藤寛之が
各界で活躍される方々との対話を通して、
「善循環」を広げるためのヒントを
考えてまいります。

今回は、臨済宗円覚寺派の横田南嶺管長に
教えを乞います。

【ゲスト】
横田南嶺 老師

【タイトル】
幸せになるためには
どうしたら?

◆死ぬかもしれないと思い込んだとき、
人生の景色が変わった

佐藤 管長さまのYou Tubeチャンネル(「毎日の管長日記と呼吸瞑想」)をいつも拝見しております。本日はよろしくお願いします。

横田 私も佐藤さんの著書『人が輝く森林経営』(PHP研究所刊)を興味深く読ませていただきました。遺書の話が印象に残っています。死ぬかもしれない体験をして人間が変わるというのは、禅の修行で睡眠時間を削って自分を追い込み、死に近い体験をして体得するものがあるというところに通じます。仏教のあらゆる教えは、死の一字を見つめることにも通じています。

佐藤 死の一字を見つめるとは?

横田 自分とは無関係の死は三人称です。一方、二人称の死はもう少し身近です。配偶者や友人など、直接関わりがある人の死。そしてもっとも切実なのが一人称の死。つまり自分の死です。結局、自分はいつか死ぬということをどこまで深く感じることができるか。死を生きている間に一人称として受け止めるのが、死の一字を見つめるということです。

佐藤 私も自分が死ぬかもしれないと思い込んだとき、一瞬にして人生の景色が変わりました。そして再びこの命が長らえたら、みんなのために生きようと思いました。

横田 そういう現象が起きるのが、合理的には説明できない、死に近い体験の不思議なところですね。厳しい修行をつんだ人が一様に優しい人になるのはそういうわけでしょう。

佐藤 理想的な死はありますか?

横田 どんな死になるか選べないし、理想を描くとだいたい理想からはずれます。どういう死に方であろうと、仏心の中であることに変わりはありません。畳の上で静かに死ぬ方もいれば、病気で苦しんで亡くなる方もいる。苦しんで死ぬのがダメということはないのです。

佐藤 瀬戸内寂聴さんが、悪いことをした人がいい死に方をする。そういう不条理があるから宗教や芸術が必要なんだとおっしゃっていたと聞いたことがあります。

横田 その通り。人の世の不条理は避けられません。でもどうであろうと、仏心の中であることに変わりはないという絶対の安心感があれば、どんな死でも受け入れることができます。

佐藤 管長さまにひとつ質問です。孤独を感じられることはおありですか? 

横田 私は変わり者でしたから、10歳のときから一人で坐禅をしてきました。ずっと孤独の中で人間の死を考えてきたのです。仏教に心ひかれたのも、人間は一人で生まれて一人で死ぬ存在だと、お釈迦さまがおっしゃっていたからです。ある漢方医と対談したことがあります。彼は監察医もやっていて、孤独死した人を検死することもあったんだそうです。亡くなった方はだいたい幸せそうな顔をしていると言っていました。孤独は楽しむもの。私は最初からそう思って生きてきました。

◆自分にふりかかることは
すべて意味がある

佐藤 禅の言葉に「莫妄想(妄想することなかれ)」というものがあります。妄想や執着を止めるにはどうしたらいいのでしょうか。

横田 妄想はなくなったと思うのが一番の妄想です。生きている限りなくならない。「莫妄想」はその妄想に振り回されないように生きましょうということです。そのためには妄想がどうやって起こるのか第三者的に理解してみればいい。なぜあの人はこんな発言をするのか、なぜこんな行動をするのか、冷静に観ることです。感情に振り回されると、自分に悪意があるからに違いないなどと、妄想がふくらみます。でも一歩引いて観察すれば、相手の言動の理由がわかってくる。世の中には嫌な人がいるのではなく、嫌だと思う自分がいるだけです。

佐藤 視点を変えてみればいいのですね。私は自分にふりかかることはすべて意味があると思っています。偶然ではなく必然。すべてはご縁。原因があって結果がある。

横田 その通りです。哲学者であり、教育者の森信三さんが「絶対不可避なる事は絶対必然にして、これ『天意』と心得べし。」と言っています。でも大変な困難にあっている人に、「それは天意です」と押しつけるのは少々違う。寄り添って一緒に悲しんであげないといけないときもあります。

佐藤 タイミングや誰が言うかも大事ですね。

横田 昨年、円覚寺に長くいた看板猫が亡くなりました。この猫が絶妙なタイミングであらわれて、ひとりの修行僧の人生を変えたのです。

佐藤 どんな出会いだったのでしょう。

横田 かつて修行道場に来ていた若い者で、なかなか修行に身が入らない修行僧がいました。困っていたところ、ある日、修行僧たちが弱りかけて息も絶え絶えの子猫を見つけました。その猫をどうするか問いかけてみると、珍しくその修行僧が手をあげて、自分が世話をするという。子猫を動物病院につれていって介抱して。すると奇跡的に助かって、円覚寺の人気の看板猫になったのです。そして、彼は見違えるように修行に励み、今では立派な住職になっています。

佐藤 利他の心が人の本質を磨く、と私はずっと思っていますが、まさにそのお坊さまは出会うべきときに、出会うべくして子猫に会い、利他の心にめざめたのですね。

横田 子猫のために自分をさしおいてつくす。その気持ちが彼の人生を変えたのでしょう。

佐藤 私は物心つかない頃から人生は辛く苦しいものだと感じながらも生かされてきました。そして、どうしたら幸せに生きられるのかを考える中でお釈迦様の教えに巡り合いました。お釈迦さまはご自身では八正道(※正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)を実践されましたが、一方で六波羅蜜(※布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)という考え方もあって、ふたつは似ているのか、違うのか。幸せになるためにはどうしたらいいか、教えていただけますでしょうか。

◆人は誰でもその人なりの苦しみを
抱えて生きている

横田 八正道はお釈迦さまの初期の教えですね。六波羅蜜はお釈迦さまが亡くなって、大乗仏教(自己の悟りを目指す上座部小乗仏教に対して、みなが救われることを目指すのが大乗仏教)が広がったときに、まとめられた教えです。日本は大乗仏教ですので、六波羅蜜のほうを基本にします。
六波羅蜜では、最初に「布施」が出てきます。施しをするのが一番の利他であり、自分を向上させることにつながるからです。ただし、施してやっているのだという心を持ってはいけません。それは驕りであり、慢心です。仏教が目指したのは、自我をどこまで滅ぼせるかということ。そのための八つの正しい道を示したのが八正道であり六波羅蜜だと思ってください。そして誰にでもできるのが、施すこと、すなわち布施ということです。

佐藤 先ほどの猫のお話。猫に施すことで猫が元気になって、その方も成長して、幸せになるのと通じますね。

横田 それが佐藤さんがよく言う「天国のうどんの話」と同じです。相手に食べさせてあげるからそれが喜びになって、自分も幸せになる。自分だけが食べようとすると、争いになって、誰もうどんを食べられない。

佐藤 「布施」の次の「持戒」については、出家をしていない私は、どういうことを戒めにしたら、幸せになれるのでしょうか。

横田 「持戒」というと規律にしばりつけるイメージがありますが、もともとは「良い習慣を持つ」という意味です。生き物を殺さないという良い習慣を持てば、平和に生きられますし、人を傷つける言葉を言わないという良い習慣を持てば、争いなくすごせます。

佐藤 そうした習慣を持てば、幸せに生きられるということですね。

横田 そうです。実は決まり事を持っていたほうが、何もない自由な生き方より幸せだという研究もあるのですよ。カトリック信者とプロテスタント信者、無神論者のうち、もっとも自殺率が低かったのが、規律のあるカトリックだったそうです。一番自殺者が多かったのは無神論者。あまりに自由に生きられるとかえって苦しいのかもしれませんね。

佐藤 意外でした。「忍辱」はどうでしょうか。

横田 「忍辱」は文字通り耐え忍ぶということ。修行では警策という棒で叩くという、人為的な痛みを与えて耐え忍ぶ訓練をします。でも私は必要ないと思っています。

佐藤 といいますと?

横田 人は誰でもその人なりの苦しみを抱えて生きています。この世に生まれたこと自体が苦しみだとお釈迦さまもおっしゃっている。たとえ何不自由ない境遇に生まれても、苦しみのない人など存在しません。佐藤さんも社長の跡取り息子として生まれた苦しみを抱えて生きていらしたでしょう。

佐藤 お釈迦さまも王子として生まれながら、厳しい修行に出られました。

横田 私たちはみな生きることを通して「忍辱」を実践しています。歯を食い縛って耐えるのではなく、むしろ安らかに受け容れていくのが理想です。そんな境地をめざしたいですね。

佐藤 「精進」はどうですか。

横田 これは仏教ではぜったい譲れない要になります。仏教ではいっさいは空であり、無であるとも教えますが、どうせ空(くう)で無(む)ならば、好き勝手に生きていいと思ってしまいますが、そうではありません。お釈迦さまは命ある限り精進せよ、努力せよ、とおっしゃっています。そしてご自身も最後まで説法をつづけ、旅の途中で亡くなっています。

佐藤 私は亡くなったときのお釈迦さまの言葉が心に残っています。お釈迦さまは旅先で信者であるチュンダの家に招かれて食事をします。そのとき食べたものが原因で亡くなってしまうのですが、泣き崩れるチュンダに対して、瀕死の床にあるお釈迦さまが「私が今日、ここで死ぬのは生まれたときから決まっていた。おまえのせいではない」と言います。

横田 まさに慈悲の心ですね。経典によるとお釈迦さまは食事を口に含まれた瞬間、よくないものだと悟ったと言います。その証拠に、残り物はすぐ土に埋めて、食べないようにと弟子に言いつけたそうです。食事を供してくれたチュンダの心に報いて、覚悟を持って食べたということですね。

佐藤 在家である私たちは何をもって精進したらよろしいのでしょうか。

横田 毎日の仕事がお勤めです。朝起きて、会社に行って自分の勤めを一所懸命果たすのです。仏教では勤め励むのは不死の道、怠けることは死の道という言葉もあるくらいです。

◆よく知ることは智慧であり、
慈悲である

佐藤 次の「禅定」ですが。

横田 これは心をしずめることです。今、企業でもマインドフルネスを導入されていますでしょ。マインドフルネスは、禅から宗教色を抜いたもので、今、ここに集中して、心を調えることです。

佐藤 その話をこの間、社内報で書いたばかりです。今、ここにないものを見ていても、幸せはわからない。目の前のものを大切にするのがほんとうの幸せなのだと。

横田 心をしずめるには呼吸と姿勢が大切です。呼吸を調えれば、心も調います。腰を立てる姿勢は心を落ち着けるだけでなく、身体も健康になると言われています。

佐藤 心をしずめることについては、お釈迦さまに異教徒の若者がけんかを売ったときの話が印象に残っています。お釈迦さまは反論せず、若者にたずねるのです。「あなたは人にふるまった食事を相手が食べなかったときはどうしますか」。「そこに残るだけだ」と若者が答えると、お釈迦さまは「残った食べ物はあなたのものになります。私はあなたの言葉を受け取りません。ですからあなたの言葉はすべてあなたのものになります」。こういう心境に私もなりたいですね。

横田 六波羅蜜の最後は「智慧」です。正しく知るという意味です。六波羅蜜には直接「慈悲」という言葉は出てきませんが、私は究極の智慧と慈悲はひとつだと思っています。

佐藤 知っていることは慈悲だということでしょうか。

横田 たとえば自分が大変な苦労をしているときに、支援をしてくれる人も大事でしょうが、自分のつらさを知ってくれている人がいたら、すごい力になると思いませんか。あるカトリックのシスターは、私たちがこの世ですべきことは二つ、「知ること」と「愛すること」だと言うんですね。愛することはよく知ること。よく知ることは智慧であり、慈悲であると私は思っています。

佐藤 マザー・テレサも愛とは関心を持つこと。愛の反対語は憎しみではなく、無関心とおっしゃっています。稲盛和夫さんが日本航空を再建されたときも、最初にされたことは現場を回って、現場を知ることだとお聞きしました。

横田 もちろん他人のことですから、全部知ることはできませんが、知る努力をやめないということが一番大切なんでしょうね。

佐藤 今日は知らないことばかり、教えていただきました。これからも知る努力をつづけて幸せになる道を探していきたいと存じます。ありがとうございました。

【プロフィール】
横田南嶺(よこた・なんれい)
臨済宗円覚寺派管長。花園大学総長。
1964年和歌山県生まれ。大学在学中に出家得度し、卒業と同時に京都建仁寺僧堂で修行。1991年より円覚寺僧堂で修行し、1999年、円覚寺僧堂師家に就任。2010年、同派管長に就任。2017年、花園大学総長に就任。著書に『二度とない人生を生きるために』(PHP研究所)、『禅と出会う』(春秋社)、『十牛図に学ぶ』(致知出版社)など多数ある。

【プロフィール】
佐藤寛之(さとう・ひろゆき)
株式会社桶庄 代表取締役社長 CEO兼CHRO。
1982年生まれ。創業150年の桶庄の5代目経営者。「すべては、私たちの明日の笑顔のために!」というミッションを掲げ、「私たち(桶庄と関わるすべての人々)の幸せ」を心から願い、仕事を通じて社会へ幸せの連鎖、「善循環」を広げている。座右の銘は、倜儻不羈(てきとうふき)と至誠通天。著書に『人が輝く森林経営』(PHP研究所)がある。